目を刺す、痛み
それはたしかにそこにある。
それで、も。
089:突き刺すような光の存在に気付いていないかのようにそっと
意味もない街の喧騒がむやみに腹立たしい。露店をひやかしながら前を歩く仲間の話し声さえ鬱陶しい。むしろ普段であれば積極的に関わっているだろうくだらない話。ごはん食べたいな。肉だろ肉。燻製の煙ったさはもう飽きたよ。重たい足を引きずってジュードは数歩前を歩く背中を見つめた。葡萄茶の外套にどういう謂れがあるかは判らないがアルヴィンは手放さない。何か思い入れのある品なのかもしれない。胸や腹を覆うように長いスカーフのたなびきは彼の背中に遮られて見えない。女性も子供も年長者の小言さえもうまくあしらいながらアルヴィンは露天から菓子を買い求める。ピーチパイが好きなのだと言っていたから甘党なのかもしれない。そのたまご、きれい。ぬいぐるみを抱きしめた少女にアルヴィンは袋を広げた。好きなの取っていいぜ、チョコレートとマシュマロだって。少女は礼を言ってひとつ取る。食べ歩きに行儀の悪さを感じるのかオロオロするのをアルヴィンが片目をつぶってみせた。こっそり食っちゃえ。
ざわざわした。アルヴィンが秘密を持ちかけるのはもちろんジュードだけではない。そもそもある程度の胡散臭さを帯びるアルヴィンの経歴から見れば人嫌いであるとか無愛想であるとかいうことは忌避される。子供にも大人にも老人にも当たり障りなく優しい。障りがないというのは問題を起こさないという点においてだ。小言もわがままさえも聞く。その上で自分の仕事が出来る隙間を作っては稼いでいるようだ。まだ世間を知らないジュードにはできない。アルヴィンは多分ジュードより辛い経験や嬉しい出来事があって、その苦労や甲斐を人目に晒す気はないのだ。いつもなんでもないような顔をしてさり気なく助け、さり気なく突き放す。気づいた時にはジュードは成長という過程を経ていて、その背中を押してくれていたことに、背中を押す手が離れてから気づくのだ。だから体の向きを変えて向かい合ってその手を掴み取りたいと思うのに、アルヴィンはジュードが振り向く素振りを見せると退いてしまう。深追いすれば逃げる。だからジュードはいつもある程度のところで追跡を諦めて無防備なふりをして背中を晒して神経を張り詰める。また触ってくれますようにと、思いながら。
「少年?」
覗きこむアルヴィンの顔にジュードの肩が跳ねた。口元を引き結ぶのをアルヴィンの紅褐色の目は不思議そうに見た。宿が決まったぜ。おたくと俺は同室だ、いつもどおりに。文句は? ない、よ。そりゃ好かった。宿は基本的に女性陣にある程度の余裕を持って振り分け、残りを男が年齢順に振り分ける。たいてい残りの相部屋をジュードとアルヴィンで共有した。年長の指揮者はいつもジュードとアルヴィンが組むように仕向けているようにみえる。ジュードが戯れを装って訊いたら好きな方と一緒がいいでしょうとあっさり言い負かされた。このやり取りをアルヴィンは知らないしジュードに教えるつもりもない。年長の指揮者も表沙汰にする気はないようだった。だからジュードは自分のこの好意がアルヴィンにはばれてないだろうとは思ってない。アルヴィンは敏い方だし、時には仲を取り持つこともあると言っていたから経験もあるはずだ。ジュードはいつも半ば自棄になりながらアルヴィンの風呂あがりや寝顔をあからさまに見据えた。それでもアルヴィンから苦情が来たことはない。
がたがた荷物を片付けるアルヴィンの外套も埃っぽい。ジュードの装備や服装も似たもので、ジュードは素直に旅装を解いた。隠しを触ると紙片が触れる。ジュードは唇をとがらせるようにしてそれを睨むとアルヴィンに声をかけた。
「アルヴィン、さっき、アルヴィンに渡して欲しいって手紙をもらったんだけど」
「手紙ー?」
掌へ収まる程の折りたたまれた紙片だ。折込は複雑で容易に解けないようになっているし、解いたら復元するのは手順を識っているものにしかできないようになっている。ジュードは渡された時のままのそれをアルヴィンに渡した。アルヴィンは読みもしないで隠しへしまうと訊いた。
「俺の名前言ったのか?」
「言ってないよ。あの外套の優男に渡せって言われたんだ。優男の年齢なのってアルヴィンだけじゃないか」
ジュードを指したら少年と言うだろうし年長の指揮者を指すなら老人と言うだろう。アルヴィンはふんと鼻を鳴らすと使いの質が落ちたなぁと嘯いた。
「読まないの。急ぎの用じゃないの」
単純にその内容が気になったので問うと別にいいんだよとさらりと流される。
ジュードが解いた旅装からふわりと香るものがある。あの紙片からだとすぐに判った。ジュードは匂い消しや香り袋の類いは持ち歩かないから人工的な良い香りというものは異質なのだ。くんくんと鼻を鳴らしてみせるとアルヴィンが片眉をつり上げる。
「どうした」
「アルヴィンからする匂いがその手紙からするなぁって思っただけ。香水のきつい人と付き合ってるの?」
明確に嫌味だ。アルヴィンは時折行方をくらましては上流階級しか持ち得ない香りをまとって帰ってくる。その相手が誰なのかをジュードはそろそろ悟りつつある。案の定アルヴィンが渋い顔をする。だが明確にジュードを責めたりしない。アルヴィンの中では自分の落ち度として決着しているに違いなかった。それがジュードの矛先を余計に尖らせた。
「その匂いがする連絡を貰うといつも何処かへ行くよね、僕を撒いて。僕だって寝床へ尾行するほど世間知らずじゃないよ。しかも時々つらそうにしてるよ。ひょっとして無理強いされてるんじゃないの」
ジュードの悪口をアルヴィンは咎めなかった。交渉や交歓の相手を異性だけだと思うほどジュードは純真無垢ではない。医学を志すものとしてある程度性癖の種類さえ識っている。理性や情緒だけでどうにかなるような優しいものばかりでないことや、経験や心的外傷さえ大きく関係するのを識っている。ジュードの中に偏見はないつもりだ。思慕を寄せる相手が自動的に異性にだけ向くなら切ない恋愛物語が年令や性別さえ超えて支持される理由がない。だがある程度事情を知っているからなお舌鋒は鋭くなるし抉る。アルヴィンの傷を抉る用意も覚悟もないジュードは不用意に踏み込んだ。もう少し相手選べば。それとも、情報でももらってるの?
アルヴィンの腕が震えた刹那にジュードは打擲を覚悟した。ジュードの言動は手加減する理由などない。言いがかりに近いのだ。それだけでも平手打ちされる理由になる。気に障ったなら拳だ。ぎゅっと歯を食い縛るが打擲が来ない。ふわりと。開いたジュードの琥珀の双眸にアルヴィンの顔が大映しになる。
「泣きそう」
血が上った。苛立ちと羞恥ともどかしさにジュードはアルヴィンの手を強く払った。どうせアルヴィンはジュードの葛藤さえ年齢的なものだと判じているに違いなかった。アルヴィンが粗野に嗤った。
「溜まってんの?」
手加減なしの平手が極まった。とっさに平手にしたのはジュードが自分に落ち度があると認めたからだ。平手であれば冗談で済むような気さえした。拳で殴ってしまったら、それはもう決定的な決裂になりそうでジュードは怖かった。切れた唇をアルヴィンは行儀悪く舐める。紅い化粧がすぐ落ちる。唇は艶めく朱唇から桜色のそれへ変わる。
「馬鹿にしてんの?!」
ヒステリックに叫ぶジュードにさえアルヴィンはすまないとすんなり詫びた。俺、わりと体で生きてきたほうだから機微に疎くてさ。気分悪くしたら悪かった。用意された逃げ道にジュードの目が潤んだ。あぁ自分はまだこんなにも子供で頼りなくてどうしようもない。アルヴィンが対等に怒りや苛立ちや不満をぶつける位置にさえいないのだと。情けなくて涙があふれた。白い頬を幾筋も伝う涙と、その落涙の規模にアルヴィンが明確に狼狽えた。悪かったよ。謝罪は火に注ぐ油でしかない。ジュードの高ぶりが収まらない。叫びだしたい喉元まででかかっている声も言葉も音さえも、涙となって溢れて伝う。今のジュードに出来る感情表現は泣くことだけだった。伸ばされたアルヴィンの指先から逃げるように体を引いた。
止まらなかった。そのまま振り切るように部屋を飛び出す。すれ違う人の目線は気にならない。ただアルヴィンから逃げたかった。短い黒髪をなびかせてむやみに路地裏を走る。泣き声は上げなかった。喉仏の辺りで熱い塊が凝った。その分涙は底なしにあふれて頬を濡らし頤から雫を落とす。息継ぎに開いた口や喉は喘ぎに死んだ。四肢が重たく凝って動かなくなってジュードは足を止めた。肩を揺らすほど息を乱しながらジュードの方にそれ程の疲れの認識がない。後から疲れやツケが回ってくるに違いないと判ったがそれでも休むためにあそこへ戻る気にはなれなかった。泣き声もなくジュードは泣いた。好きな人がいること。好きな人には相手がいること。時々交渉を持っているだろうこと。旅の途中でもそれに応じて好きな人がつらそうに帰ってくること。――自分には、何もできないこと。
「――――ぁ、あ」
声帯が振動した。喉笛が震えて絶叫を奔らせようと口を開く、瞬間。
「ばかやろう」
後ろから伸びた腕がジュードを抱きしめた。同時に口をふさがれる。くぐもった音をさせたがすぐに収まる。ジュードを抱きしめているアルヴィンの肩が揺れていた。
「ちくしょう全速力でどれだけ走らされたと思ってんだ、おたくは。優等生ならもう少し冷静に切り抜けろよ」
嬢ちゃんたちに説明が要り用だからな、おたくが考えろよ俺は知らないぜ。ジュードの尖った神経が収まっていく。アルヴィンの火照った手が触れている。装備を解いていたようで肌が直に触れていた。触れてくるアルヴィンの熱が融ける。周りを見れば繁華街とは程遠い位置だ。目印の看板や広告灯が遠い。住民たちは耳を立てながらも諍いには寛容だ。青年と少年の色恋などありふれているに違いなかった。
「――だって。だって、だってお前は相手がいるんじゃないか。…ガイアス、だろう。知ってるんだよ」
「馬鹿、そういうことは交渉の切り札として使えよ。本当におたくは腹芸に向かないな」
「僕はお前が好きなんだよッ!」
驚きで止まったはずの熱い雫が滴った。冷たい石畳の通りへポツポツ落ちる雫が沁みた。
「僕はアルヴィンが好きなのに、アルヴィンは僕のこと子供だとしか思ってないじゃないか」
「ジュード」
アルヴィンの声で名前を呼ばれるのは心地よかった。施された譲歩にジュードは意識的に遠慮を振り切った。
「じゃあ」
「じゃあ僕に抱かれてよ、アルヴィン」
凍った気が、した。アルヴィンの喉が震えるのが判る。鳶色の髪が揺らいだ。葡萄茶の袖が見えて、あの外套をまだ着ているのだと思うと無性に腹がたった。アルヴィンの中ではジュードの行動は許容範囲内でしかないのだ。
「いいぜ」
その即答が応えだ。ジュードの歳若い未熟からくる暴走でそれを堪えればいいのだとアルヴィンは思っている。ジュードの神経が逆だった。びりびりと痛いそれは自尊心だけではなく外聞さえ吹き飛ばす。怒りは反射としてほとばしりアルヴィンの予想を裏切る。ジュードの裏拳がアルヴィンの腫れた頬へ炸裂した。痛みと衝撃に弛んだ腕の拘束をジュードは振り払う。
「それが、ばかにしてるって言うんだよ!」
涙声のそれにアルヴィンが怯んだ。ジュードはアルヴィンの甘く熱い拘束から抜け出ると構えをとる。明確にアルヴィンを戦闘における敵として認識しているという意思表示だ。
「ジュード」
「呼ぶな」
「ジュード!」
「呼ぶ、なぁああッ!」
激昂と対照的にジュードの脚は地面を強く蹴って後ろへ飛んだ。捉えようとしたアルヴィンの腕が空振る。ぽかりと見開かれた紅褐色の目はまだジュードを魅了した。その眼球さえ愛しいと思えるほどにジュードはアルヴィンが好きだ。それでも今、アルヴィンに捕まるわけにはいかなかった。アルヴィンの熱はジュードの何もかもを殺して抑えてしまう。不満も。不平も。文句さえも。アルヴィンの体温はジュードにとっての弛緩でしかない。ぴりぴりと張り詰める神経はこの場が戦闘状態であると認識する。アルヴィンは呆けたようにジュードを見つめた。戦闘の数をこなすものとしてこの変化や状態はアルヴィンにも伝わっているはずだ。だからアルヴィンは怯んでいるのだ。ジュードがアルヴィンを敵とみなしたことに。
「ジュード、お前」
「呼ぶな!」
ジュードの意志がぐらつく。アルヴィンに懇願されたらジュードは立ち位置を迷うくらいにはアルヴィンが好きだ。彼がジュードを好きだと言う言葉を吐くためにある程度の損害を被ってもいい気になっている。だからこそ、危険、なのだ。鋭い一言にアルヴィンが伸ばした手を引く。それだけでジュードは泣き喚きたいほどの悲哀と切なさに身を灼いた。
「ごめ」
「こないで」
アルヴィンの紅褐色が傷ついたように揺らぐのが見えた。それでもジュードは音を紡ぐ。
「来ないで!」
アルヴィンは小さく、ごめん、と言うと踵を返す。ジュードが追える訳もない。喉の震えを殺して息を詰めながら遠ざかる葡萄茶の外套を見送った。その背中はジュードが泣けばすぐにでも足を止めて戻ってくる。だからジュードは涙だけを流しながらそれを見送った。呼気を殺して声を潰して。一瞬だけ振り向く紅褐色の潤みにジュードは睨みつけたまま泣いた。遠ざかっていく。言葉があふれた。
好きです。好き。君が。
アルヴィンが、好きです。
「――ッあ、あぁあ、あぁぁぁあああああああああ」
堪えるのは無理だった。喉が焼ききれるほどに吼えて啼いて泣いた。血を吐く叫びだった。顔を抑える。ぐりぐりと押し潰そうとする眼球はひどく熱くて涙に濡れた。唾液さえ飲み込まずにあふれて滴る。辛かった。痛かった。アルヴィンがもうジュードを見てくれないかもしれないと思うだけでそれはひどくジュードを殺す。
お願い。僕を。僕を見て。
僕はアルヴィンが本当に本当に好きなんだよ。
アルヴィンが僕を見てくれない世界なんかいらない。
僕がアルヴィンから目をそらさなければいけない世界なんかいらない。
もう、なにもいらない
「アル、ヴィン…!」
「ばかはおたくだ」
ふわっと翻る香りが。頭から被せられたのはあの葡萄茶の外套だ。アルヴィンの匂いがした。
「おたく、泣きそうなんだよ。気づいてるか? 俺は泣きそうな子供もおたくも放ってなんかおけないんだよ」
アルヴィンの指先がジュードの黒髪を乱す。外套に頬をうずめながらジュードは泣いた。
「どうせ嫌われるなら、おたくが泣き止んでから嫌われてやるよ」
「…ばか…」
たまらなく愛しかった。
嬉しかった。アルヴィンがジュードの元へ、帰ってきてくれた、事が。
偽りで、あっても
《了》